1周80キロ余りの小さな離島に、慰霊の明かりがともされた。12日、北海道南西沖地震から30年を迎えた北海道奥尻町。町民らは亡き人を悼むとともに、防災意識の大切さをあらためて胸に刻んだ。
正午、追悼のサイレンが島に鳴り響いた。観光で訪れていた女性(53)は「そんな大きな災害があったなんて知らなかった。奥尻ブルーの海からは想像できません」と驚いて、手を合わせていた。
津波と火災で被害が集中した青苗地区。島の犠牲者198人の名前が刻まれた慰霊碑「時空翔(じくうしょう)」では、献花台に花を手向け、海に向かって黙禱(もくとう)する町民の姿があった。ある男性は「(亡くなった)みなさんの顔が浮かんできて胸が詰まる。奥尻の未来を見守ってほしい」。
時空翔や津波館の前では、1500本のろうそくを島の形と追悼メッセージ「7・12 30年の今 天と海の青に いつも抱かれ」の文字に並べ、夕暮れを待って火をともした。10年以上続けてきた制野征男さん(79)は「(三陸地方の教え『津波てんでんこ』のように)まずは早く逃げて、自分の命を守ることを最大限優先させる。その大切さを伝えたい一心で続けてきた」と話す。だが、体力などを考慮して今回で最後にするつもりだ。「若い世代に引き継いでもらいのだが……」
島出身で東京在住の詩人麻生直子さん(81)も駆けつけ、自作の詩「憶(おぼ)えていてください」と「よみがえる故郷・奥尻島」を朗読した。「一瞬の大地の鳴動が 破壊しつくしたあの夜の津波の恐ろしさ 連れ去られた家族たち かなしいその光景に失意して 未来を拒んだりしないでください――」。時空翔に語りかけるように読み上げた。
21メートルの津波が襲い、34人がのみ込まれた初松前地区。慰霊碑の周りに漁具のガラスの浮き玉を犠牲者と同じ数だけ並べ、ろうそくをともして法要を営んだ。
親族6人が犠牲になった遺族会長の阿部元大(もとひろ)さん(61)は「30年たっても亡くなった人たちを忘れることはないし、遺族に風化はない。慰霊祭を見て震災を思い出してくれる人もいるので、できる限り長く続けていきたい」と話した。
家族7人のうち両親を含む6人を亡くし、島北端の稲穂地区で営んでいたみやげ物店も流された桜花綾子さん(71)は、あの日の「奇跡」を忘れない。
地震直後、両親を案じて青苗へと車を走らせていると突然、「綾子!」と叫ぶ母の声がはっきりと聞こえた。驚いて車を止めた。「そのお陰で私は津波にのまれずに助かったんです」
震災の教訓として心がけていることがある。家族が今日はどんな服装なのか、色や柄をちゃんと覚えておくようにしている。「人は自然の脅威にはかなわない。万が一、災害に巻きこまれて行方不明になっても、すぐに探し出してあげたいから」(阿部浩明)
「忘れ物あっても戻らない」
奥尻町立青苗小学校(全校23人)では12日、「一日防災学校」が開かれた。
ベルを合図に避難訓練が始ま…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル